第一章 イタリア現代思想の見取り図
 ネグリvs.カッチャーリ
 否定的なるものの到来 --- 一九七〇年代
 政治の脱構築と「弱い思考」をめぐって --- 一九八〇年代
 「共同体」と「生政治」 --- 一九九〇年代以後
 女性の思想家たち
 宗教をめぐって
 エスポジトの三連画 --- コムニタス、イムニタス、ビオス
 アガンベンと「潜勢力」
補遺コラム
 『アウト・アウト』の半世紀
 ニーチェ・ルネサンス
 カール・シュミットと「否定の思考」
 「安楽死」の脱構築
 テロルと恐怖
 「生経済」、「生美学」
 アガンベンの「ホモ・サケル」計画

第二章 「帝国」と「ヨーロッパ」をめぐって --- カッチャーリとその思想
 カッチャーリの「ゲーム」
 いま、なぜ「ヨーロッパ」なのか?
 ヨーロッパの「最期=苦悶」
 カッチャーリの「ヨーロッパ」
 ヨーロッパの「アゴーン」
 音楽の「多島海」、政治の「多島海」
 キリスト教の脱構築と「ヨーロッパ」
 「場」の名としての「境界」
 都市のエートス、ヴェネツィアというモデル
 イコンと天使
補遺コラム
 フォネーとロゴス
 メシア主義と終末論

第三章 キリスト教の/への問い
 二人の先駆者 --- パレイゾンとクインツィオ
 自由と悪
 神の敗北と不可能なるメシア
 「ヨブ」という形象
 苦痛の経験と「有限なるものの倫理」
 「世俗化」をめぐって
 ニヒリズムと「ケノーシス(神性放棄)」

第四章 アイステーシスの潜勢力
 アイステーシスの潜勢力
 イタリアの/という差異
 イタリアのポストモダン、ポストモダンのイタリア
 エクリチュールの多様化と「作者の死」
 ポストモダンとネオバロック
 ポストヒューマンをめぐって
 イメージの氾濫
 「感嘆」と「崇高」
補遺コラム
 「肉」のゆくえ
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第一章で、「強い思考」(絶対的価値、真理、普遍などの暴力)に対し、「弱い思考」とは何であるかが、哲学的アンソロジー『弱い思考』からの引用によって説明される。

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「弱い思考」というタイトルが示唆するのは、基本的に以下の点である。すなわち、(A)形而上学的な明証性(さらには基本原理の強制)と、主体の内と外で作用する支配の諸関係とのあいだには関連があるというニーチェの、そしておそらくはマルクスの発見を、真剣に受け止めなければならないという決意。(B)しかし、だからといって、脱神話化と脱仮面化を通して、この発見をじかに解放の哲学へと向けることが問題なのではない。そうではなくて、肝心なのは、表層と対話手続きと「象徴形式」とを、存在の可能的経験の場とみなすことで、これらのものからなる世界にたいして、新たにより友好的な---というのも、形而上学的に苛まれることなく、よりくつろいでいるからであるが---眼差しを向けることである。(C)とはいえ、その真意は「シミュラクルの礼賛」(ドゥルーズ)にあるわけではない。「シミュラクルの礼賛」は、結局のところ、あいもかわらぬ形而上学的な「存在者---存在」の権威をシミュラクルに与えることになるだけだろう。そうではなくて、とるべき進路は、半ば抑えられた光(ハイデガーの「開かれ=空き地[Lichtung]」のもつ可能な意味のひとつに従うなら)のなかで分節化されうる(それゆえ推論されうる)思考のほうにある。(D)さらに、解釈学がハイデガーから受け継いだ---かなり問題含みの---存在と言語との同一化は、まさしく形而上学がみずからの科学的で技術的な成果のうちに置き忘れてしまった、根源的存在を発見するための方法として理解されるのではない。そうではなくて、痕跡や記憶としての、あるいは、すり減らされ弱められた存在としての存在に新たに邂逅するための方途として、理解されるのである。
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第三章では、パレイゾンの後期の関心を紹介する。

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「悲劇的思考」とも形容される後期のパレイゾンにとって、最大の関心は、神の存在と悪の存在とをいかに思考するかという点にあった。この問題については一般的に、次の四つの立場が考えられうるだろう。すなわち、(1)神も悪も存在するという立場(グノーシス主義)(2)神は存在するが実質的に悪は存在しないとする立場(弁神論)(3)神は存在しないが悪は存在するとする立場(ニヒリズム)(4)神も悪も存在しないとする立場(楽観的な無神論)、である。本来キリスト教は第一と第二の立場のあいだを揺れているはずだが、全能の神を大前提とする第二の弁神論の立場をとるなら、悪の問題は、神の善性なるものへと都合よくすりかえられてしまうことになる。
だが、現実は明らかにその思弁を裏切っている。イワン・カラマーゾフのせりふを借りるなら、「この世の現実が神の存在を排除し無効にしている」のである。それゆえパレイゾンが、この第二の立場をとらないこと、ましてや第四の立場でもないことは自明であろう。
(中略)存在論の観点から自由を考察すること、つまり、たんに人間の実存の本質としての自由ではなくて、自由としての存在それ自体、あるいは始まりとしての自由という問題から出発すること、それこそ彼が、とりわけその晩年に取り組もうとしたテーマであった。
(中略)この根源的な自由、始まりとしての自由とは何であるか。それこそが神という名で呼ばれるものにほかならない、とパレイゾンは考える。「神は、自己の以前と以後の時間そのもののなかにある。みずからの実在を望むという点で、神はすでに実在以前にある。そして実在するからには、神の本質はまさしく、それによって神が実在しようと欲した自由にあったことがわかる」。
(中略)「たしかに神は悪の起源ではあるが、その実現ではない」とパレイゾンは考える。「その実現は、歴史の次元における人間にのみかかわっている」のである。言い換えるなら、悪(否定性)は現実化されない可能性としてつねに神のうちに存在する、ということになるだろう。このようにユダヤ=キリスト教における神は、みずからの内に否定性と悪とを抱え込んでいるのである。
こうした神の否定性---神における分裂、みずからに背く神、みずからを否定し放棄する神---が最も典型的なかたちであらわれているのは、パレイゾンによれば、キリストの受難である。悲痛にも十字架上で神の子は叫ぶ。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。神は無惨にも、受肉したみずからの子を見捨てたのだ。使徒パウロが「ケノーシス(神性放棄)」の名で呼ぶこの観念は、今日キリスト教について論じる多くの思想家たちにとって必須の参照点となっている重大なテーマであるが(中略)パレイゾンはこれを、悪と自由という観点から読み直しているのである。つまり、現実化されない可能性としての神のうちに保持されていた悪は、神がその神性を放棄したとき、キリストの受難として、人間にもたらされたのである。こうして彼によれば、受難のキリストから、「アンチノミー、矛盾、対立、対照、不信、そして葛藤をみずからの内にもつ弁証法的な神の概念」が生まれる。
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また、この本の中で一番面白いのは、クインツィオの、キリスト教に絡む哲学を紹介するくだり(第三章)だろう。

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そのクインツィオが、悪の問題をどのように思考しているか、簡単にたどっておこう。たとえば、わたしたちは死や苦痛をいかにして受け入れることができるか。一般的には次の四つの選択肢が、人間としての尊厳に値するものとみなされている。つまり、ストイックな厳かさとともに受け入れること、英雄的な力をもって対峙すること、美的な経験へと変換させること、そして神の意志に委ねることの四つである。
しかし、これらはいずれもある種の自己欺瞞にほかならないと、この現代の預言者は診断する。なぜなら、ストイシズムは悪があたかも存在しないかのように装い、ヒロイズムは悪をすべての人間の力でねじ伏せようとし、審美化は悪を転倒させ、神意への従属は悪を善の道具に仕立てようとしているからである。クインツィオによれば、これらのいずれをもってしても悪と闘うことはできない。解消も美化も正当もできないもの、それこそが悪(罪、苦痛、死)なのである。それゆえわたしたちは、全面的な救済、十全にして完璧な救いなるものを望むことはできない。望みうるのは、みじめな救済、貧しい救済のみなのだ。
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そのあと、「不条理な不幸」に論点が移る。

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それにしても、どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのだろうか、そんな苛立ちにも似た絶望感を、ある程度の年齢に達した人なら誰しもいちどは味わったことがあるにちがいない。それが病気や事故であれ、災害や事件であれ、わたしたちはそのとき、よりにもよってなぜ自分に不幸が降りかかってきたのか、と問い質さないではいられない。そして、しばしばそれは、叫びや嘆きや呪いとなって表面化してくる。だが、いったい誰に向かってわたしたちは(心のなかで)叫び、誰を呪っているのだろうか。自分に向かってだろうか。それとも、人為を超えた何者かに向かってだろうか。おそらくは、そのどちらでもあるのだろう。
旧約聖書は、そんな人間の普遍的で根源的な叫びを、ひとりの忘れがたい人物像のなかに見事に結晶化して見せてくれる。『ヨブ記』の主人公、ヨブがその人である。「潔白で正しく、神をおそれ、悪から遠ざかっていた」(1:1)にもかかわらず、神は、およそ考えられうるありとあらゆる不幸をこの男に浴びせかける。それでも彼は最初、「罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」(1:22)。だが、我慢にもおのずと限界がある。ついに彼は、「自分の生まれた日を呪い」(3:1)、「なぜ、わたしをあなたの的とされるのですか。わたしが重荷を負わなければならないのですか」(7:20)と、神に向かって叫ぶように問いかけはじめるのである。
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そして、ヨブ記に対するクインツィオの哲学が紹介される。

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その解釈においてもっとも特徴的なのは、ヨブの叫びが、十字架上のキリストの叫び---「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」---を先取りしているとみなす点である。だがもちろんこの問いかけに応えはありえない。あるいは、応えのなかに神がその姿をあらわすことはない、と言うべきか。その叫びはいかなる解釈をもってしても到達しえない深淵なのである(だからこそ、その意味を問おうとする欲求を抑えることはできない)。ここにおいて、正義の神への信仰という前提は大きく揺らぐ。つまりヨブは、まさに信じることと信じないことの葛藤や矛盾のうちに置かれているのである。
(中略)
この世において、善をおこなう者が善の、悪をおこなう者が悪の報いを受けるとは必ずしも限らない。とするなら、来るべき時になれば神は、きっと正義の裁きを下してくれるにちがいない。正しい報いとしての神の審判は、死後にもたらされることだろう。ヨブの叫び、「人が死ぬと、生き返るでしょうか。わたしの苦役の日にかぎり、わたしの代わりの者が来るまで待ちましょう」(14:14)は、そのほのかな期待を暗示している。この見通しは、旧約聖書全三九書のうち、二七番目に位置する『ダニエル書』ではじめて明確となるもので、それはたとえば、以下のような一節によくあらわれている。いわく、「地のちりのなかに眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに」(12:2)。死者の復活、死後の生といった考え方それ自体は、モーセの時代までユダヤ人たちがその地に暮らしていたエジプトにもすでにあったものだが、『ダニエル書』において、神の審判という理念とはっきり結びつくことになるのである。そのきっかけとなっているのが、クインツィオによれば、不当な苦しみを神に告発する『ヨブ記』であったと考えられるのである。
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続いて、世俗化について述べられる。

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「世俗化」をどのようにとらえ評価するにせよ、それが、西洋の近代を理解するうえでもっとも重要なキータームのひとつであることは、マックス・ウェーバー、カール・シュミット、カール・レヴィット、ハンス・ブルーメンベルクらの仕事が証明するところである。よく知られているように、ウェーバーは、カルヴァン的なプロテスタンティズムの倫理を資本主義精神の基礎とみなし、その「世俗化の過程」として西洋近代社会をとらえようとした。一方シュミットは、絶対主義から民主主義へと移行してきた近代国家にかかわるおよそあらゆる政治的・司法的概念が、「世俗化された神学的概念」にほかならないことを跡づけようとした。さらにレヴィットは、「歴史神学の世俗化」によって、「進歩」の観念に基礎をおく近代の歴史哲学が生まれたことを暴き出す。
(中略)
これらの「世俗化」論者たちにたいして、一九六〇・七〇年代に、ブルーメンベルクが果敢に論争を仕掛けていったこと、そしてその成果が、『近代の正統性』という大著となって結実したことは、まだわたしたちの記憶に新しいところであろう。この思想家によれば、「世俗化」は「歴史的不正のカテゴリー」である。というのもたとえば、進歩主義的観点と終末論的観点とは根本的に異質のものだからである。終末論は、歴史をその外側から中断させ、歴史を超越する出来事にかかわっているのにたいして、進歩は、そのあらゆる契機が歴史のなかに内在している、とブルーメンベルクは主張する。したがって、両者のあいだには大きな隔たりがある。代わって彼が打ち出してくるのは、キリスト教的伝統にたいする近代の根本的な自律性であり、そのキータームは「世俗化」にではなくて、人間の「自己主張」にある。
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この本で紹介された本。
第一章
マリオ・ペルニオーラ(Mario Perniola)『バタイユと否定的なるもの(Bataille e il negativo)』
アルド・ガルガーニ(Aldo Giorgio Gargani)『根拠なき知(Il sapere senza fondamenti)』(1975)
アルド・ガルガーニ(Aldo Giorgio Gargani)編著『理性の危機(Crisis della ragione)』(1979)
エマヌエーレ・セヴェリーノ(Emanuele Severino)『ニヒリズムの本質(Essenza del nichilismo)』(1972)
セルジョ・ジヴォーネ『無の歴史(Storia del nulla)』(1995)
ピエル・アルド・ロヴァッティ(Pier Aldo Rovatti)『要求とマルクス主義理論()』(1976)
いずれも、七〇年代が、テロリズム、マルクス主義の再検討とシミュラクルといった現象によって特徴ずけられ、「否定の思考」がイタリアにもたらされた時代であったことの例として紹介される。

ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『中味のない人間(L'uomo senza contenuto)』(1970)
ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『スタンツェ(Stanze)』(1977)
いずれもベンヤミンとハイデガーを独自に咀嚼した例として紹介される。

フランコ・レッラ(Franco Rella)『他者の神話(Il mito dell'altro)』(1978)
フランコ・レッラ(Franco Rella)『沈黙と言葉(Il silenzio e le parole)』(1981)
美学の側から近代批判を展開した例として紹介される。

マンフレード・タフーリ(Manfredo Tafuri)『プロジェクトとユートピア(Progetto e utopia: Architettura e sviluppo capitalistico)』(1973)
都市論や建築論の分野に鋭いイデオロギー批判をもちこんだ例として紹介される。

マリオ・ペルニオーラ(Mario Perniola)『シミュラクルの社会(La società dei simulacri)』(1980)

カルロ・ミケルシュテッテル(Carlo Michelstaedter)『得心と修辞学(Persuasione e la rettorica)』(1910)
早くも二〇世紀はじめの時点で、アイデンティティや個性や自信といった西洋近代の主体の理念にたいして独自の批判を展開していた例として紹介される。

ジョルジョ・コッリ(Giorgio Colli)『ニーチェ以後(Dopo Nietzsche)』(1974)
ジョルジョ・コッリ(Giorgio Colli)『哲学の誕生(La nascita della filosofia)』(1975)
ジョルジョ・コッリ(Giorgio Colli)『ギリシアの知恵(La sapienza greca)』(1977-80)
ジョルジョ・コッリ(Giorgio Colli)『彷徨える理性(La ragione errabonda)』(1982)
ジョルジョ・コッリ(Giorgio Colli)講義録1964-65『エレアのゼノン(Zenone di Elea)』(1998)
ジョルジョ・コッリ(Giorgio Colli)講義録1965-67『ゴルギアスとパルメニデス(Gorgia e Parmenide)』(2003)
古典学者ジョルジョ・コッリの著作として紹介される。

ロベルト・カラッソ(Roberto Calasso)『カシュの廃墟(La rovina di Kasch)』(1983)
ロベルト・カラッソ(Roberto Calasso)『カドモスとハルモニアの結婚(Le nozze di Cadmo e Armonia)』(1988)
特異な哲学的文学で知られる例として紹介される。

レーモ・ボディ(Remo Bodei)『解体---近代的個のかたち(Scomposizioni. Forme dell'individuo moderno)』(1987)
レーモ・ボディ(Remo Bodei)『美のかたち(Le forme del bello)』(1995)
レーモ・ボディの著作として紹介される。

ウンベルト・クーリ(Umberto Curi)『戦争を考える(Pensare la guerra. Per una cultura della pace)』(1985, rev.1999)
ウンベルト・クーリの著作として紹介される。

ジャコモ・マッラマーオ(Giacomo Marramao)『権力と世俗化(Potere e secolarizzazione)』(1983, rev.2005)
ジャコモ・マッラマーオ(Giacomo Marramao)『空と大地---世俗化の系譜学(Cielo e terra. Geneaologia della secolarizzazione)』(1994)
カール・シュミットの名高いテーゼ---主権や国家に関する近代の主要な概念はキリスト教神学にその根源をもつ---に、時間論を合体させることでいっそう練り上げ深化させた例として紹介される。

サルヴァトーレ・ナトーリ(Salvatore Natoli)『苦痛の経験---西洋文化における(L'esperienza del dolore. Le forme del patire nella cultura occidentale)』(1986)
サルヴァトーレ・ナトーリ(Salvatore Natoli)『進歩とカタストロフィ(Progresso e catastrofe. Dinamiche della modernita)』(1999)
つねに政治と倫理と宗教を同時に視野に入れて思考を展開する例として紹介される。

マンリオ・ズガランブロ(Manlio Sgalambro)『太陽の死(La morte del sole)』(1982)
「覚醒されたメランコリー」を実践する例として紹介される。

ダル・ラーゴ、ロヴァッティ(Alessandro Dal Lago, Pier Aldo Rovatti)『羞恥心礼賛(Elogio del pudore: Per un pensiero debole)』(1990)
哲学的アンソロジー『弱い思考』に参加した若い思想家たちの幾人かは、その後、それぞれの分野で活躍していった例として紹介される。

フェッラーリス(Maurizio Ferraris)『デリダへの補遺(Postille a Derrida)』(1990)
解釈学から出発し、その後デリダとの関係を強めていく例として紹介される。

カルロ・シーニ(Carlo Sini)『エクリチュールの倫理(Etica della scrittura)』(1992)
イタリアにおけるデリダ思想の独自の展開として紹介される。

カール・シュミット(Carl Schmitt)『パルチザンの論理(Partisanentheorie)』(1963)
テロリズムと戦争をめぐる問題圏においてクローズアップされてくる例として紹介される。

カルロ・ガッリ(Carlo Galli)『政治の系譜学---カール・シュミットと近代政治思想の危機(Genealogia della politica. Carl Schmitt e la crisis del pensiero politico moderno)』(1996)
『パルチザンの論理』の今日的意義を強調している例として紹介される。

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(Antonio Negri, Michael Hardt)『帝国(Empire)』(2002)
生政治と共同性をめぐる問題が主要なテーマになっている例として紹介される。

雑誌『エウトロピア[Eutropia]』
伊仏バイリンガルの雑誌

ロベルト・エスポジト(Roberto Esposito)『コムニタス(Communitas)』(1998)
どちらかというと否定的であるが強靱な理論的考察の例として紹介される。

パオロ・ヴィルノ(Paolo Virno)『マルチチュードの文法(Grammatica della moltitudine. Per una analisi delle forme di vita contemporanee)』(2001)
新たなる政治的主体としての「マルチチュード」を提唱している例として紹介される。

ジャコモ・マッラマーオ(Giacomo Marramao)『西へのパサージュ---哲学とグローバリゼーション(Passaggio a Occidente. Filosofia e glabalizzione)』(2003)
内なる他者=オリエントへの眼差しに貫かれている例として紹介される。

ダル・ラーゴ(Alessandro Dal Lago)『非-人格---グローバル社会における移民の排除(Non-persone. L'esclusione dei migurati in una societa globale)』(1990)
包含/排除をめぐる理論的な考察や現状の分析もさることながら、メディアや情報によって、「危険」な存在としての移民という神話がいかに作られていくか、マクロな社会不安がいかに移民という他者へと投影されていくかを跡づけてみせた点ですぐれている、として紹介される。

ピエロ・ザンニーニ()『境界の意味---自然的・歴史的・精神的境界線()』(1997)
ダル・ラーゴの著作と同じような文脈でとらえることができる例として紹介される。

マウロ・カルボーネ(Mauro Carbone, David M. Levin)『肉と声---美学と倫理学との対話(La carne e la voce. In dialogo tra estetica e etica)』(2003)
フェデリコ・フェッラーリ、ジャン=リュック・ナンシー(Federico Ferrari, Jean-Luc Nancy)『イメージの皮膚(Nus sommes. La peau des images)』(2003)
ステファノ・カトゥッチ(Stefano Catucci)『貧しい哲学のために(Per una filosofia povera)』(2003)
アンドレア・カヴァレッティ(Andrea Cavalletti)『生政治の都市---セキュリティーの神話(La Citta Biopolitica: Mitologie Della Sicurezza)』(2005)
いずれも、一九六〇年前後に生まれた、より若い世代の思想家として紹介される。

Giovanni Fornero『Bioetica cattolica e bioetica laica』(2005)
カトリックの国イタリアにおける生命倫理の現状について問題をうまく整理している例として紹介される。

エマヌエーレ・セヴェリーノ(Emanuele Severino)『胎について(Sull'embrione)』(2005)
科学とキリスト教のセヴェリーノ狭間で哲学的に生命を思考する可能性を問う例として紹介される。

ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『到来する共同体(La comunita che viene)』(1990)
「だれかれ[qualunque]」を主体なき主体の形象としている例として紹介される。

ロベルト・エスポジト(Roberto Esposito)『三人称---生の政治と非人称の哲学(Terza persona. Politica della vita e filosofia dell'impersonale)』(2007)
一人称-二人称の絆を克服する「非人称の思考」を主体なき主体の形象としている例として紹介される。

アドリアーナ・カヴァレーロ(Adriana Cavarero)『フィギュールのなかの身体---身体性の哲学と政治学(Corpo in figure. Filosofia e politica della corporeita)』(1995)
アドリアーナ・カヴァレーロ(Adriana Cavarero)『より多くの声に---声の表現の哲学(Filosofia dell'espressione vocale)』(2005)
女性の「声」という問題に注目する例として紹介される。

エレナ・プルチーニ(Elena Pulcini)『情熱なき個---近代の個人主義と社会的絆の喪失(L'individuo senza passioni. Individualismo moderno e perdita del legame sociale)』(2001)
エレナ・プルチーニ(Elena Pulcini)『結び付ける力---女性、欲望、配慮(Il potere di unire. Femminile, desiderio, cura)』(2003)
主体の欲望と他者への配慮という、近代における困難な二元論を克服しようと試みる例として紹介される。

マリア・サンブラノ(María Zambrano)『哲学と詩(Filosofía y poesía)』(1939)
マリア・サンブラノ(María Zambrano)『アンティゴネーの墓(La tumba de Antígona)』(1983)
オルテガ・イ・ガゼットの弟子として出発したスペインの詩人/哲学者の著作として紹介される。

ラウラ・ボエッラ(Laura Boella)『マリア・サンブラノ---悲劇の歴史から倫理の歴史へ(Maria Zambrano dalla storia tragica alla storia etica)』(2001)
アンナローザ・ブッタレッリ(Annarosa Buttarelli)『愛された女性哲学者---マリア・サンブラノ(Una filosofa innamorata. Maria Zambrano e i suoi insegnamenti)』(2004)
マリア・サンブラノの思想を積極的に取り込もうとしている女性の思想家として紹介される。

アドリアーナ・カヴァレーロ(Adriana Cavarero)『恐怖主義、あるいは無防備な者への暴力について(Orrorismo overo della violenza sull'inerme)』(2007)
「テロリズムとの戦い」とテロリズムとの見境すらもはやつかないような今日の出口のない絶望的な暴力の応酬を前にして、「テロリズム」や「戦争」や「敵」といった、伝統的な政治的カテゴリーの限界をえぐりだそうとしている。

ジュディス・バトラー(Judith Butler)『生のあやうさ---哀悼と暴力の政治学(Precarious Life: The Powers of Mourning and Violence)』(2004)
スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)『他者の苦痛へのまなざし(Regarding the Pain of Others)』(2003)
9.11以後に女性によって表された二つの著書、これに対しカヴァレーロが応答している、と読めるとして紹介される。

マリオ・ペルニオーラ(Mario Perniola)『カトリック的に感覚すること---普遍宗教の文化形態(Del sentire cattolico. La forma culturale di una religione universale)』(2001)
サルヴァトーレ・ナトーリ(Salvatore Natoli)『信者ならざるもののキリスト教(Il cristianesimo di un non credente)』(2002)
ジャンニ・ヴァッティモ(Gianni Vattimo)『キリスト教以後---非宗教的キリスト教思想のために(Dopo la cristianita. Per un cristianesimo non religioso)』(2002)
ジャンニ・ヴァッティモ、ローティ(Gianni Vattimo, Richard Rorty)『宗教の未来---連帯・慈愛・アイロニー(Il Futuro della Religione)』(2005)
いずれも、最近出版された著書のなかから、いくつか重要と思われるもの(いずれもローマ教会の側から見れば異端的なもの)として紹介される。

ロベルト・エスポジト(Roberto Esposito)『秩序と葛藤(Ordine e conflitto. Machiavelli e la letteratura politica del Rinascimento italiano)』(1984)
ロベルト・エスポジト(Roberto Esposito)『政治の理論と歴史の理論()』(1986)
出発点のマキアヴェッリ研究とその成果ひとつとして紹介される。

ロベルト・エスポジト(Roberto Esposito)『非-政治的なるもののカテゴリー(Categorie dell'impolitico)』(1988)
ロベルト・エスポジト(Roberto Esposito)『政治についての9つの思想(Nove pensieri sulla politica)』(1993)
上梓された著作として紹介される。

ロベルト・エスポジト(Roberto Esposito)『共同(コムニタス)---その起源と運命(Communitas: origine e destino della comunita)』(1998)
ブランショ、ナンシー、アガンベンの共同体論の延長戦上にある。
ロベルト・エスポジト(Roberto Esposito)『免疫(イムニタス)---生の保護と否定(Immunitas. Protezione e negazione della vita)』(2002)
ロベルト・エスポジト(Roberto Esposito)『ビオス---生政治と哲学(Bíos. Biopolitica e filosofia)』(2004)
壮大にして濃密な三部作として紹介される。

ラウラ・バッツィカルーポ(Laura Bazzicalupo)『生の支配---生政治と経済(Biopolitica ed economia)』(2006)
ピエトロ・モンターニ(Pietro Montani)『生美学---グローバル化時代の共通感覚・技術・芸術(Bioestetica. Senso comune, tecnica e arte nell' eta della globalizzaztione)』(2007)
どちらもエスポジトの思想と親近性を見せている例として紹介される。

エンツォ・メランドリ(Enzo Melandri)『線と円(La linea e il circolo. Studio logico-filosofico sull'analogia)』(2004)
イタリアのフーコーともいうべき、として紹介される。

第二章
雑誌『コントロピアノ[Contropiano]』(一九七六-七一)
雑誌『アンゲルス・ノヴス[Angelus Novus]』(一九六四-七四)
マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『クライシス---ニーチェからウィトゲンシュタインまでの否定の思考についての試論()』(1976)

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『スタインホーフから---二〇世紀初頭のウィーンの遠近法()』(1980)
シェーンベルク分析

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『アドルフ・ロースとその天使(Adolf Loos e il suo angelo)』(1981)

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『法のイコン(Icone della legge)』(1985)
「ローゼンツヴァイク『救済の星』、ハイデガー『存在と時間』、シュミット『大地のノモス』、カフカ『審判』、フロイト『モーセと一神教』、マレーヴィッチやフロレンスキーのイコン論を縦横無尽に論じた」

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『必要なる天使(L'Angelo necessario)』(1986)
マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『行為のかたち(Le forme del fare)』(1989)

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『始まりについて(Dell'inizio)』(1990)
「「始まり(イニーツィオ)」というヘーゲル的なテーマにいドンだ大著」

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『ヨーロッパの地理哲学(Geofilosofia dell'Europa)』(1994)
マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『多島海(L'Arcipelago)』(1997)
いずれも、近年とりわけ「ヨーロッパ」をめぐる問題圏に関心をよせている例として紹介される。

マッシモ・カッチャーリ、マッシモ・ドナ(Massimo Cacciari, Massimo Donà)(共著)『芸術・悲劇・技術(Arte, tragedia, tecnica)』(2000)

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『都市(La citta)』(2004)
「ギリシアの「ポリス」とローマの「キウィタース」という、きわめて対照的な都市の概念---前者が伝統や習慣や宗教を共有するのに対して、後者は「自分たちの町から追い出された人々、亡命者、難民、追放者たちによって建設された」---から説き起こして、都市の運命を現代まで辿ろうとする」

リルケ『ドゥイノの悲歌』
「天使は、人間の限界の象徴として読むことができる。つまり、わたしたちが踏み越えることができないにもかかわらず、呼び求めつづけないではいられないものの象徴となる」

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari, Bonomi Aldo, Rita Giuseppe)(共著)『ブルジョワはどうなったのか---イタリアにおける新しい支配階級についての対話(Che fine ha fatto la borghesia? Dialogo sulla nuova classe dirigente in Italia)』(2004)
マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『最後の/究極のものについて(Della cosa ultima)』(2004)

雑誌『チェンタウロ[Centauro]』(一九八一-八六)
雑誌『ラボラトーリオ・ポリティコ[Laboratorio politico]』(一九八一-八三)
雑誌『カーザベッラ[Casabella]』
雑誌『アウト・アウト[aut aut]』(一九五一年創刊)
雑誌『ミクロメガ[Micromega]』(一九八六年創刊)

エドガール・モラン(Edgar Morin)『ヨーロッパを考える(Penser l'Europe)』(1987)
ジャック・デリダ(Jacques Derrida)『他の岬(L'autre cap)』(1991)
エティエンヌ・バリバール(Balibar)『ヨーロッパ市民とは誰か---境界・国家・民衆(Nous, citoyens d'Europe? Les frontieres, L'Etat, le people)』(2007)
いずれも、「スペインのディアスポラ、サンブラノが希求していた「もうひとつ別のヴァージョン」は、いかに思考されうるのであろうか」の問いが一九九〇年を前後してふたたび浮上してきた例として紹介される。

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『クライシス(Krisis)』(1976)
音楽パフォーマンス『プロメテオ』

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『踊る神(Le Dieu qui danse)』(2000)
「フランス語(とスペイン語)のみで出版されている卓越した芸術論」

ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『幼年期と歴史---経験の破壊と歴史の起源(Infanzia e storia. Distruzione dell'esperienza e origine della storia)』(1978, 2001)
ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『言語と死(Il linguaqqio e la morte)』(1982)

ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『アウシュヴィッツの残りもの(Quel che resta di Auschwitz)』(1998)
「近代の生政治の範例としての強制収容所、ならびにその証言をめぐる重いテーマを扱った」

パオロ・ヴィルノ(Paolo Virno)『現在の記憶---歴史的時間についての試論(Il Ricordo del Presente. Saggio sul Tempo Storico)』(1999)

マッシモ・カッチャーリ(Massimo Cacciari)『建築とニヒリズム(Architecture and Nihilism)』(1993)
建築論と都市論を集めて英語で出版された。「エートスから、倫理から、古人の記憶から解放された、過去二世紀のヨーロッパの都市を、ジンメルとベンヤミンを導きの糸として批判的に分析する」

第三章
ルイジ・パレイゾン(Luigi Pareyson)『ドストエフスキー(Dostoevskij)』(1993)
ルイジ・パレイゾン(Luigi Pareyson)『自由の存在論---悪と苦悩(Ontologoa della liberta. Il male e la sofferenza)』(1995)
いずれも「キリスト教への問い」の成果として紹介される。

クインツィオ(Sergio Quinzio)『十字架と無(La croce e il nulla)』(1984)
クインツィオ(Sergio Quinzio)『神の敗北(La sconfitta di Dio)』(1993)
クインツィオ(Sergio Quinzio)『不法の秘密(Mysterium iniquitatis)』(1995)
「タイトルは、使徒パウロによる『テサロニケの信徒への手紙 第二』の名高いせりふ、「不法の秘密はすでに働いています」(2:9)からとられている。

ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『残りの時(Il tempo che resta)』(2000)
クインツィオのパウロ解釈がアガンベンのパウロ論に影を落としている例として紹介される。

サルヴァトーレ・ナトーリ(Salvatore Natoli)『苦痛の経験---西洋文化における苦しみのかたち(L'esperienza del dolore. Le forme del patire nella cultura occidentale)』(1986, rev.2002)
サルヴァトーレ・ナトーリ(Salvatore Natoli)『世界に在る---現在への旅(Stare al mondo. Escursioni nel tempo presente)』(2002)
ハンス・ブルメンベルク(Hans Blumenberg)『近代の正統性(Die Legitimität der Neuzeit)』(1966)

ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『ホモ・サケル(Homo sacer)』(1995)
ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『例外状態(Lo stato di eccezione)』(2003)
ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『王国(王権)と栄光(Il regno e la gloria)』(2007)
いずれも、「世俗化」がイタリアの現代思想の必須の参照点のひとつであることの例として紹介される。

ジャコモ・マッラーオ(Giacomo Marramao)『空と大地---世俗化の系譜学(Cielo e terra. Geneaologia della secolarizzazione)』(1994)
「積年の論争を念頭に置きつつ、パウロ的な対概念---天上的/地上的、瞑想的/活動的、霊的/現世的---にさかのぼって、その近代的な変容を跡づけようと試みている」

ジャンニ・ヴァッティモ(Gianni Vattimo)『信じることを信じること(Credere di credere)』(1996)
ジャンニ・ヴァッティモ(Gianni Vattimo)『キリスト教以後---非宗教的なキリスト教思想のために(Dopo la cristianita)』(2002)
「これまでこの哲学者が歩んできた思索のすべてが、まさしく「世俗化」という概念の再解釈のもとに合流しようとしている、といっても過言でないかもしれない」

ジャンニ・ヴァッティモ(Gianni Vattimo)『近代の終焉---ポストモダンの文化におけるニヒリズムと解釈学』(1985)
ジャンニ・ヴァッティモ(Gianni Vattimo)『透明なる社会(La societa transparente)』(1990)
「社会の均質化と平均化をますます促進させるという、フランクフルト学派流のマスメディア批判に反して、ヴァッティモはむしろ、情報化社会によってもたらされる「現実感覚の弱体化」ないしは希薄化をひとつのチャンスとして引き受けようと提案する」

第四章
ピエトロ・アレティーノ(Pietro Aretino)『ラジョナメンティ(Ragionamenti)』
ポルノ小説

ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola)『人間の尊厳について(Oratio de hominis dignitate)』
「人間をカメレオンになぞらえた」

ジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico)『新しい学(Scienza Nuova)』(1725)
「美の形式的条件を超越論的に分析しようとするのではなく、美的経験の発生論的で歴史的な次元を、実証主義にも神秘主義にも陥ることなく解き明かそうとしている。」「その「詩的論理学」の試みの中心に据えられるのが、身体と感覚、パトスと驚異、想像と空想、神話と寓話、可能性と蓋然性、彩(フィゲーラ)と修辞といった、近代の美学が切り捨てるか周辺へと追いやるかしてきた要素である」

ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy)『共同-体(Corpus)』(1992)
「固有の身体」という考え方を徹底的に脱構築してみせた。

ジャック・デリダ(Jacques Derrida)『触覚・ジャン=リュック・ナンシー(Le Toucher, Jean-Luc Nancy)』(2000)
ミシェル・アンリ(Michel Henry)『受肉(Incarnation. Une philosophie de la chair)』(2000)
ナンシーの議論に応答している例として紹介される。

ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)『薔薇の名前(Il nome della rosa)』(1980)
ポストモダンの方法論的、理論的マニフェストとして読むことが可能として紹介される。

ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)『フーコーの振り子(Il pendolo di Foucault)』(1988)
「「フーコー」という固有名詞が螺旋状に二重の戯れを見せてくれる。ひとつは、振り子時計で知られる一九世紀の科学者フーコーであり、もうひとつは、言うまでもなくフランスの哲学者ミシェル・フーコーである。とりわけその著『言葉と物』への暗示は、この小説の随所にちりばめられている。もちろん、間テクスト的なコラージュはこれにとどまるわけではない。学殖豊かな中世のアレゴリーや近代のシンボリズム、洗練された風刺やアイロニー、さらに濃密な筋の対応関係やその逆転など、読者には、それらひとつひとつに反応し解釈する力が求められる」

ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)『一般記号論(Trattato di semiotica generale)』(邦題『記号論』)(1975)
「言語のみならず、あらゆる種類の記号を考察の対象とする記号論を、文化の包括的な理論まで練り上げようと試みた」

イタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino)『アメリカでの講義(Lezioni americane. Sei proposte per il prossimo millennio)』(邦題『カルヴィーノの文学講義』)(1988)
「時代を取り巻く社会とそれを動かす主要な力を理解するための概念として提示される「軽さ、速さ、正確さ、可視性、多重性」という五つの章からなり、六番目にくる予定であった「一貫性(あるいは緻密さ)」は、残念ながら未完のまま残された。ここでも文学の「職人」は、アレゴリーとおとぎ話、旅と冒険譚、機知アイロニー、豊かな視覚的イメージ等への持ち前の愛着を遺憾なく示すことで、ポストモダンの社会と文化の地図を見事に描き出してみせている」

ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『散文の理念(Idea della prosa)』(2002)
フランコ・レッラ(Franco Rella)『沈黙と言葉(Il silenzio e le parole)』(1981)
フランコ・レッラ(Franco Rella)『アスタレスク(Asterischi)』(1989)
いずれも、学術論文や講壇調のスタイルとは異なる語り口の例として紹介される。

フェデリコ・フェッラーリ(Federico Ferrari)『裸性(ヌディタ)---沈黙の批評のために()』(1999)
フェデリコ・フェッラーリ(Federico Ferrari)『イメージの皮膚()』(2003)
いずれも、アフォリズム的スタイルの例として紹介される。

セルジョ・ジヴォーネ()『ライプニッツの司書---哲学と小説()』(2005)
アドリアーナ・カヴァレーロ(Adriana Cavarero)『我をまなざす汝、我に物語る汝---語りの哲学』(1997)
アドリアーナ・カヴァレーロ(Adriana Cavarero)『より多くの声に---声の表現の哲学』(2003)
いずれも、「哲学と文学と批評の境界を揺さぶったり、語りや声それ自体を哲学的な考察の対象としたりするという試み」として紹介される。

カルラ・ベネデッテ()『作者の長い影---抹消された像の探求()』(1999)
「「作者の死」こそがむしろ近代末期の「神話」にほかならないとまで喝破する」

フェデリコ・フェッラーリ、ジャン=リュック・ナンシー(Federico Ferrari, Jean-Luc Nancy)『作者のイコノグラフィー(Iconografia dell'autore)』(2006)
「「作者の死」をめぐる問題を再考している」

オマール・カラブレーゼ(Calabrese)『ネオバロックの時代(L'eta neobarocca)』(1987)
「ポストモダンの社会と文化の諸相を、一七世紀のイタリアに誕生した時代様式「バロック」の鏡に映して描き出そうとした」

ウンベルト・エーコ()『前日島()』(1994)
「一七世紀を舞台にしたポストモダン小説」
「バロック的な知と感性を縦横無尽に駆使してみせる」

ドゥールーズ()『襞---ライプニッツとバロック()』(1988)
クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン()『バロック的理性と女性原理()』(1984)
クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン()『見ることの狂気()』(1986)
いずれも、1980年代半ばに「バロック」が鍵概念として脚光を浴びてきた実例として紹介される。

ハインリッヒ・ヴェルフリン()『ルネサンスとバロック()』(1888)
「バロック」がらみで紹介される。

マリオ・ペルニオーラ(Mario Perniola)『エニグマ()』(1990)
「「バロック」の鏡に映し出すことで、現代を批判的に診断しようと試みている」

マリオ・ペルニオーラ(Mario Perniola)『カトリック的に感覚すること---普遍宗教の文化形態』(2001)
「バロックの宗教家イグナティウス・ロヨラらのテクストを新たに読み替えながら、「カトリック」の真の現代的意義を、言い古されて中身の空虚な博愛主義や世界教会主義(エクメニズモ)ではなくて、外から感覚するという儀礼・祭式の人類学的で感性=美学的な次元に求めようとしている」

マリオ・ペルニオーラ(Mario Perniola)『無機的なるもののセックスアピール』(1994, 2004)
「「無機的なるもののセックスアピール」について言及した晩年のベンヤミンに勢いを得て、哲学・美学や芸術をモードやサブカルチャーなどとあえて同じ次元におくことで、現代文明の諸相をセクシュアリティの観点から読み直そうと試みている」

ロベルト・テッロージ(Roberto Terrosi)『ポストヒューマンの哲学(La filosofia del postumano)』(1997)
ロベルト・マルケジーニ(Marchesini Roberto)『ポストヒューマン---実存の新たなモデルに向けて(Post-Human. Verso nuovi modelli di esistenza)』(2002)
ロベルト・マルケジーニ(Marchesini Roberto)『ポストヒューマン---グローバル化時代の力、知、倫理(Umano, post-umano. Potere, sapere, etica nell'eta globale)』(2004)
ロベルト・マルケジーニ(Marchesini Roberto)『ポストヒューマン---ネット社会における人間とテクノロジーの関係(Post-umano. Relazione tra uomo e tecnologia nella societa delle reti)』(2006)
いずれもポストヒューマンに関する著作として紹介される。

ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)『開かれ(L'aperto)』(2002)
「動物と人間との閾が、宗教的、生物学的、美学的、政治的な言説においていかに揺れ動いてきたか」「鋭く跡づけて見せた」

ジャンニ・カルキア(Gianni Carchia)『存在の寓話---『ソフィスト』註解(La favola dell'essere. Commento al Sofista)』(1997)
「プラトンの『ソフィスト』を丹念に読み解いた」

ジャンニ・カルキア(Gianni Carchia)『古代の美学(L'estetica amtoca)』(1999)
「ローマ第三大学での講義録がもととなった最晩年の書き下ろし」

ジャンニ・カルキア(Gianni Carchia)『思考の愛(L'amore del pensiero)』(2000)
ジャンニ・カルキア(Gianni Carchia)『名とイメージ---ヴァルター・ベンヤミン試論』(2000)
ジャンニ・カルキア(Gianni Carchia)『イメージと真理---古典の伝統に関する研究(Immagine e verita. Studi sulla tradizione classica)』()
ジュンニ・カルキア(Gianni Carchia)『オルフェウス教と悲劇(Orfismo e tragedia)』(1979)
ジャンニ・カルキア(Gianni Carchia)『崇高の修辞学(Retorica del sublime)』(1990)
いずれも、イタリアの優れたイメージの思想家の著作として紹介される。

エマヌエーレ・テザウロ()『アリストテレスの望遠鏡()』(1645, 1670)
「驚異」の特徴を、「放浪(ペッレグリーノ)」のうちに読み取ろうとする。それはあたかも、ドゥルーズの「ノマド」を300年も前に先取りしているかのようであるとして紹介される。

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