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目次

序章 六本木ヒルズ
第一章 武人の風雪
第二章 西国の風雲
第三章 二人の歳月
断章 山川草木・旅順紀行
第四章 旅順という山塊
終章 戦いすんで

あとがき
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序章 六本木ヒルズ

麻布上屋敷

 六本木ヒルズという東京の街は、未来都市の模型を突然ここに持ってきて据えたような集落である。銀色の壁面をまぶしく湾曲させた、五十四階建ての巨大な森タワーが丘の上にそびえ、その周辺に、四十階建てのレジデンスと呼ばれる高級マンションをはじめ高層建築の群れが林立して、遠近法で描いたビュッフェの絵のような垂直の景観をつくりだしている。
 そこに人々 のことを、ヒルズ族というのだそうだ。舗石が初秋の陽をはねかえす緩やかな斜面を、乳母車をおして下りてくる中年婦人のすがたもこの街の点景というところか。彼女が愛児とともに散策の足をはこぶ先は、「毛利庭園」である。それはビルの窓が覗きこむ擂鉢の底に、澄んだ水を溜めた「毛利池」とわずかな躑躅の群落を配した小公園だ。
 入り口の表示板には「六本木ヒルズの緑のシンボルとして『空』と『緑』を感じられる日本庭園を作庭いたしました。この庭園では、古くからの地形を活かして池や流れを造るほか、クスノキ・サクラなど9本の既存の樹木を残して、春はサクラ、秋はモミジと季節の変化を楽しめる回遊式の庭園としました。平成十五年四月 六本木六丁目地区市街地再開発組合」とある。
 毛利池の広さほどの空が真っ青な透明のドームとなって、頭上を覆っている。やはり庭園内に立つ別の表示板が、庭園のいわれを説明する。
 「この地は、吉良庭討入りに加わった元赤穂藩士四十七人のうちの十人が預けられた長門長府藩毛利家麻布日ヶ窪上屋敷の一部である。中国地方の戦国大名毛利元就の孫に当たる秀元を初代とする毛利家は、現在の山口県下関市に藩庁を置いた外様大名(三万六千二百石)である」
 この説明は誤りで、毛利本家は三十六万九千石、萩に本城をおき萩藩と称した。初代藩主は元就の曾孫にあたる秀就である。
 現在の山口県下関市長府に城下をおいた長府藩(初代藩主秀元)は毛利の支藩であり、その長府藩の上屋敷が、麻布のここにあった。文化九年(一八一二)の『武鑑』では毛利甲斐守の公称石高を五万石余としてある。
 今の麻布十番通り一帯は、徳川家康が江戸に城地を定めた当時からひらけた町だが、麻布台を下りた日ヶ窪あたりは、その名のとおり陽射しのわるい湿地帯のような場所だった。
 「毛利庭園」の表示板には、さらに赤穂義士のことが書かれているので、ついでに読んでおこう。
 元禄十五年(一七〇二)十二月十五日、藩主綱元は、家老田代要人を請取人として江戸詰諸藩士三百余人を、大目付仙石伯耆守邸(現在の港区虎ノ門二丁目八)に遣わした。
岡嶋八十右衛門常樹
吉田沢右衛門兼貞
武林唯七隆重
倉橋伝助武幸
間新六光風
村松喜兵衛秀直
杉野十平次次房
勝田新左衛門武尭
前原伊助宗房
小野寺幸右衛門秀富
の十人が日ヶ窪の江戸屋敷に収容された。

 長府藩にお預けとなった赤穂義士十人が、この屋敷の裏門より送りこまれたとき、藩主毛利甲斐守綱元は在府中だった。ただちに屋敷内の長屋を急づくりの牢屋に仕立てて義士たちを入れ、あくまでも罪人として厳重に収檻した。
 編年体の公式長府藩史『毛利家乗』では、受け入れ前半のいきさつを省略して、「日に饋ルニ盛饌ヲ以テス。必ず二膳アリ」と豪華な食事を供したとしているが、最初は粗末な一汁一菜しか与えなかった。
 同じ義士を預かった大名でも熊本の細川綱利は、義士を仏子の鑑として優遇し、彼らを牢ではなく藩邸の座敷に収容した。毎日のご馳走ぜめに義士たちが音を上げたという。それにくらべて毛利氏のひどい仕打ちが江戸庶民の不評をかった。
 「何等の冷酷、何等の無同情、武士の情も何もあったものではない。それで侠熱なる江戸っ子は非常に憤慨した」(福本誠『元禄快挙真相録』)
 悪評に気づいて長府藩が義士のあつかいを変えたという話は、長府藩みずからが別に書き遺した資料に裏付けられている。
 『毛利家乗』に収録された赤穂浪人預り一件の末尾に「遺臣等ヲ我ガ邸ニ看護スルヨリ幕裁ヲ受クルマデノ事実ハ別ニ赤穂浪人御預記ニ詳悉セリ」と、付記している。
 その『赤穂浪人御預記』は下関市立長府図書館が所蔵する。
 長州藩の義士にたいする冷遇を、後世におよんでも侮蔑をもって語る史家が少なくない。しかし長府藩みずからが、その状況を詳細な「事実」として記録したことの意味、そして二百数十年にわたる面従腹背の姿勢が、幕末の倒幕運動となって噴き出したことに思いを届かせる人はいないようだ。
 関ヶ原で西軍の総大将となり、敗戦後、徳川に煮え湯をのまされたことへの屈折と卑屈な体質が、長く毛利氏の対幕姿勢に反映したのである。
 幕府にむける怨嗟の視線が、幕府の警戒心を刺激した。ささいなことに因縁をつけられ、取りつぶしになるのではないかという密かな恐怖心を、毛利氏はいつもただよわせていた。

 一、浪人に爪楊枝を与えてもよろしいか。
 一、毛抜きを所望しているが与えてもよろしいか。
 一、扇を所望しているが与えてもよろしいか。
 一、発病したとき医者に診せてもよろしいか。
 ・・・・・・・・・・・・。

 卑屈にそんなことを一々伺ったことが、細部にわたって『赤穂浪人御預記』に記録されている。やがて元禄十六年(一七〇三)二月四日「幕府、赤穂ノ遺臣ニ死ヲ賜フ。我ガ藩士進藤某等、コレガ死ヲ介ス」とあって、義士たちの自刃の実況を詳細に記録している。
 岡嶋、吉田、武林といった順で切腹の座について。介錯人には五人の藩士が選ばれた。つまり一人で二人ずつを介錯した。
 司馬遼太郎氏は、乃木希典のことを書いた『殉死』で、そのことを、「元禄のころの長府毛利家は士風がよほどおとろえていたのか、江戸詰めで剣を使える者がすくなく、浪士の切腹にあたってそれを介錯---首を落す---ことができる者はわずか五人しかいなかった」と云っている。
 介錯人五人と聞いて、「士風がよほどおとろえていた」と即断し、地方の小藩の士風を嘲笑するのはどうであろうか。このとき伊予松山藩も預かった十人の義士を、五人の藩士が介錯している。では松山藩の士風もよほどおとろえていたことになるのか。
 この日、長府藩邸で三番目に切腹の座についた武林唯七を介錯した藩士は、はじめての経験で動転したのか、手許が狂って一撃に失敗した。
 「イマダ死セズ。顔色自若、即チ起キテ介者ヲ顧ミテ曰ク。徐ニセヨト。声イマダ了ラザルニ首隕ツ」
 『毛利家乗』では、簡潔ではあるが隠さずこのように記録した。司馬さんの餌食にされても仕方がない場面だ。『殉死』は文中これを参考にして、悲惨な介錯の状況を次のように再現する。

 榊は唯七の背後にまわり、唯七が腹に短刀を突き入れるや、あわただしく太刀をふりおろした。しかし太刀は唯七の頭蓋の下辺に激しくあたったのみで刃が跳ねかえり、落とせなかった。唯七は前に倒れ、しかし起きあがり、血みどろのまま姿勢を正し、「お静かに」と、榊に注意した。二度目の太刀で唯七の首が落ちた。

 司馬さんは『殉死』の冒頭あたりで、「この書きものを、小説として書くのではなく」といっているが、長府藩士が介錯に失敗する情景は、みごとな想像力でできあがった手練の描写である。

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