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丸谷才一のレビュー (毎日新聞 2008年8月10日 東京朝刊)

 フロイトはイタリアが大好きで、生涯に二十数回もこの国へ旅行した。彼の思想および精神分析理論の形成には、このイタリア好きが大きくかかわっている。一八九七年、旅に出る直前に友達に出した手紙にこうある。

 僕の心のなかは発酵していますが、僕は何も仕上げていません。心理学には大いに満足しています。神経症学では重大な疑惑に苦しめられ、考えるのがたいへん億劫(おっくう)になっています。そして、ここでは、頭のなかと感情のなかの動揺を鎮めることをなし遂げていません。そのためにはまずイタリアが必要です(、、、、、、、、、、、)。

一八九五年の『ヒステリー研究』のフロイトから一九〇〇年の『夢判断』のフロイトへと変貌(へんぼう)するためには、五回にわたる(うち九八年には三回)イタリア旅行が必要であった。

 不思議なのは、一八七六年にトリエステへ奨学生として出かけたのに(トリエステはアドリア海北端の港町で、当時はオーストリア=ハンガリー帝国の支配下)、以後二十年間イタリアゆきを敢(あ)えてせず、九五年までためらいつづけたことだ。さらに奇怪なのは、多年のあこがれにもかかわらず、一九〇一年(この年フロイトは四十五歳)まで、ローマを避けたことである。岡田温司によるこれらの謎の提出は、個人研究の手法としてまことに見事なもので嘆賞に価する。わたしはこの発想に感銘を受けた。

 批評家は対象とする作家の文体に影響されるというけれど、岡田は精神分析の方法でこの謎を解こうとする。フロイトは三歳の年、某駅を通過するときガスの炎を見て、鉄道恐怖症におちいった。十九世紀後半は、列車の激しい震動のせいでの「鉄道性脊柱(せきちゅう)」や、列車事故による「外傷性ノイローゼ」がある時代だった。それにユダヤ人嫌いの乗客と乗り合せることもあり得るし(フロイトはユダヤ系)、鉄道恐怖はたしかに要因の一つかもしれない。しかしローマを避けつづけたのはなぜ?

 『夢判断』ではフロイト自身の見た夢が四十七種あつかわれ、うち四つがローマの夢である。その四つを思い返して、彼は、少年時代にあこがれた偉人のなかにローマにゆかりの深い二人がいたと思い当る。教皇庁に勤めた、美術史学者であるドイツ人ヴィンケルマン(同性愛癖のためトリエステで落命)と、父との盟約に従ってローマに進駐したいと望みながら敢えて迂回(うかい)してナポリへと進軍したカルタゴの将軍ハンニバル(後に自殺)。著者はここでアンジューの研究を参照しながら、ヴィンケルマンとハンニバルの積極性と受動性の両立にフロイトのバイセクシュアリティの徴候を見、さらに父との関係の両義性を感じ取る。

 さらにローマ(ROMA)を逆に綴(つづ)ればアモル(AMOR)すなわち「愛」ないし「愛神」になると思い当る。ここから、フロイトにとって「ローマ」とは欲望と禁止、あこがれと恐怖という相反する感情の形象であり、禁止された愛を意味し、近親相姦(そうかん)への恐れや父へのエディプス的な嫌悪と結びつくものであったと展開してゆく。

 二つの名篇『レオナルドの幼少期』と『ミケランジェロのモーセ像』が彼のイタリア歴訪から生れたという事情については、念を押すまでもなかろう。

 知的刺戟(しげき)にみちた好著だが、フロイトの故郷であり本拠地であるウィーンとローマとの都市論的比較があれば、もっとわかりやすくなっていたかもしれない。

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