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一 疑念

     1

『……なぜだろう?』
 博多行の新幹線〈こだま〉は、新下関駅で、後続の〈のぞみ〉の通過待ちをしていた。
 沢野良介は、進行方向を背にして、向かい合わせに設えられた座席の窓側に座っていた。正面には三歳になる息子の良太が、隣に座る妻の佳枝の膝を枕にして眠っている。
 駅弁の甘酸っぱい臭気が立ち籠める車内は、盆休みの帰省客で賑わっていた。所々で子供たちのはしゃぐ声が聞こえ、それを諫める大人たちの声が聞こえる。同乗の者と何と言うこともない世間話をしたり、実家の家族と携帯電話でこっそり到着時刻の確認をしたりする声が聞こえる。
 良介は、自分が今いるそうした風景に、まだ硬い蕾のような感慨を覚え、目の焦点を曖昧にした。自分はこの場所に、ひとりの父親としている。――そう、父親なんだ。妻を伴い、子供を連れて両親の待つ実家に帰省しようとしている。いつの間にか、そうした年齢になってたんだ。……
 丁度、そんなことを考えていた時だった。通路を歩く見知らぬ乗客が、通り過ぎ様にジロリと座席の人の顔を見て行くように、先ほどの言葉が脳裡を過ぎったのだった。
 良介は、殆ど反射的に自分自身を顧みて、今度は改めてその言葉の方に目を遣り、見えなくなるまで、ずっとその後ろ姿を追っていた。確かに一瞬、目が合ったように感じた。しかし、その一瞥に、彼はまるで心当たりがなかった。そうした疑念がどこから来たのか分からなかったし、なぜ、自分を訪うたのかも分からなかった。しかし、一層奇妙に感じられたのは、それをただ、気のせいだとやり過ごすことが出来ずに、まるで何かを見咎められでもしたかのように、動揺してしまったことだった。
 既に言葉は去っていたが、彼の中にはその一瞥の記憶が残った。そして、不安げにそれを覗き見ると、見られた自分が、そのまま身動きが取れなくなって、そこにまだじっとしているような気がした。
 車内では、間延びした時間に倦んだ乗客たちの間に、彼方の新幹線の接近を探ろうとするような気配が立ち始めていた。五感には、まだ何も届けられてはいなかった。次の瞬間、突如として車体が傾くほどの衝撃が訪れると、車窓を一刷毛で猛然と白く塗り潰し、去り際にはまた律儀に車体の傾きを直して、あとの余韻も残さずに去っていった。何秒と数えるよりも、あっと言う間という慣用句がぴったりな感じだった。
 発車のベルが長閑に鳴り響いて、ドアが閉ざされた。やがて、乗客の視界からホームの景色が少しずつ遅れ始めると、見る見る加速してそれが目まぐるしくなり、駅の全長は呆気なく辿り尽くされた。車窓は束の間晴れた後、関門トンネルに突入し、俄かに光を失って、代わりにそこに乗客たちを一斉に映し出した。
「あんなにたのしみにしてたのにねー。まってるあいだにつかれちゃったねー。」
 佳枝は、良太の額をちょんとつつくと、半分は良介に聴かせるようにしてささやいた。
 最寄駅の宇部新川からは、在来線を乗り継いで厚狭まで行き、そこからこだまで小倉まで一時間強という、旅程というほどのこともない移動のはずだった。それが、宇部駅で乗る予定の山陽本線で人身事故があって、復旧まで一時間半も待たされる羽目となった。自殺かどうかは分からなかったが、酷暑のホームで苛立つ乗客たちは、「死んでもいいけど、こんな時に飛び込まんでもなァ。」と愚痴を零し合っていた。
 こだまとのぞみとの区別のつかない良太は、幼児用の雑誌の中にあったのぞみを描いた「しんかんせん」の絵を見て、昨晩はなかなか寝つかれないほどだったが、さすがにそれでくたびれ果てて、乗車するなり、佳枝の膝をねだって、ものの五分もする間にすっかり眠り込んでいた。
 黒い綿のカーゴ・パンツ越しに、髪に籠もったその小さな頭の熱が、固い重みを伴って伝わってきた。佳枝は、日焼けして肘の谷にまた少し赤く兆したアトピー性皮膚炎を時折無意識に掻きながら、良太の顔を覗き込んでいた。
「もうついちゃうよー。おーい、たっくん。ちゃんと、あるけますかー?」
 佳枝が顔を上げると、良介の目差しは、内へと滑り落ちそうになっていたところを、危うく引き戻されたというふうに、彼女の上に踏み留まった。そして、眸の奥で起こったそのほんの些細な出来事を悟らせないために、二三度素早く瞬きをすると、その隙に、さりげなく視線を良太の寝顔に逃がして、
「ギリギリになって起こせばいいよ。」
 と小声で伝えた。
 三歳になって、身長も丁度90センチと、さすがに大きくなったが、目を瞑る様子には、今もどこか、エコーで見る子宮の中の胎児のような、瞑想的なおとなしさがあった。起きている良太の相手をするのは楽しかったが、眠っている姿を眺めるのも好きだった。それは、父親になるまで想像もしなかった喜びだった。良介は、凡そ神秘的なもの、崇高なものへの関心を欠いていたが、寝ている良太の静けさには、一種、敬虔な気持ちになった。大人の寝顔は、こんなにも、その内側で何かが起こっている感じを抱かせないものだと彼は思っていた。――そう、何かが起こっている。それも、未来に向けて明るい何かが、着実に起こっている。そんな感じがした。
 良太の小さく膨らんだ丸いほっぺたは、熟れ始めの白桃のように鮮やかなピンク色をしていた。そこにはまだ、どんな複雑な感情の陰影も刻まれた痕がなく、しかも、何かちょっとした力が加われば、それがいつまでも消えない傷を残してしまいそうだった。
 良介は、今朝、鏡の前に立って見た自分の顔を思い出した。ユニット・バスの床には、昨夜の入浴後の冷えた水気がまだ残っていて、それがいつにも増して不快だった。通気口からは、分厚く強壮な蝉の啼き声が聞こえてくる。その響きは、今でも彼に、中学・高校時代の野球部の夏期休暇練習を思い出させた。
 地元の私立大学を卒業した後、良介が就職したのは、宇部に本社のある化学薬品会社だった。最初の勤務地は大阪の研究所である。その後、二年間、千葉の工場の品質管理部に配属され、今年四月からは本社の営業部に異動していた。
 良介は、自分が痩せたことに気がついた。あまりこまめに体重計に乗ったりはしない方で、四月の健康診断でも、体重は前年と変わらなかったので自覚しなかったが、電気シェイヴァーの山型のヘッドが、落ち窪んだ頬を捕らえそこなう感触から、彼は途中、何度となく、空いている左手で、肉の薄くなった顴骨の下の辺りを撫で摩った。
 天井の蛍光灯の明かりは、却ってトンネルの中を夜のように錯覚させた。ドアの上の電光掲示板を、プロ野球の試合結果を伝える文字が、右から左へと流れてゆく。
 やがて、小倉駅到着のアナウンスが流れると、それに合わせたかのようにトンネルが果て、車中は一瞬にして真夏の午後の光に満たされて、乗客たちはその明るさの中に吸い込まれた。
「さーて、おきてー、たっくん!」
 佳枝は良太の肩を軽く叩きながら声をかけた。良太は、それを嫌がるふうに体を捩って、佳枝の股の間に逃げ込むように顔を埋めた。
「もー、どこにかおをつっこんでるの、アナタは? ほら、たっくん!」
 佳枝は思わず吹き出しながら言った。良介は、靴を拾って良太に履かせてやると、
「ほら、たっくん。おきないと、おいていっちゃうぞー。」
 と体を揺すり、自分はそのまま立ち上がって、佳枝の前を抜け、通路に出た。荷棚の旅行カバンは、前後の乗客の荷物に圧されて潰れかかっていた。腕を伸ばすと、彼は、二つのカバンと土産のはいった袋とを、佳枝たちに気をつけながら下ろして、空いているシートに並べた。
「はい、おきたー。おはよー、たっくん。おめめはさめましたか?」
『……なぜだろう?』
 佳枝の声を聞きながら、荷物を纏める良介に、ふとまた、その言葉が耳打ちされた。しかし今度は、先ほどとは違って、半ば自分で意識しながら、それを呟いたようだった。
 彼は、表情を曇らせて顔を上げた。そして、なぜか急に不安になって、降車客で混み合い始めた通路の先に目を遣った。出口が遠い気がした。二人を連れて、うまく出られるだろうか? あるいはと、後ろを振り返って、どちらが近いかを確かめようとした時、彼は、良太を傍らに抱いて座ったまま、じっとその様子を見ていた佳枝の目と、間違ってというふうな不用意さで出会してしまった。
「……ん?」
 問われるよりも早く、彼はわざと口を固く結んで、両眉を持ち上げながら額に浅く皺を寄せた。
「ううん。……」
 佳枝は咄嗟にそう応じて、続く言葉を微笑の中に曖昧に溶かした。そして、
「さぁ、たっくん、おりるよー。」
 と良太の手を取り、促した。
 良介は、前屈みになって、荷物の取っ手を両手に掴んだ。減速する車両に逆らって、上手くバランスを取ったつもりだったが、持ち上げた荷物が思いの外重く、小さくよろめくと、そのまま耐えきれずに、同じような家族連れの隣の乗客に、肩口からぶつかってしまった。
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とにかく読ませる。芥川賞作家の力量が感じられる作品。
楊逸を読むより、こっちを読んだ方が面白いと思うんだけどなぁ。

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